先日の夜、寝る前のこと。布団の中で5歳の娘が突然こう言いました。
ねえパパ、人間は神様のゲームなのかなあ?
思いがけず深遠な質問に驚きました。
これはいわゆる「自由意志」や「決定論」の命題です。哲学や物理学(量子力学)、脳科学、神学等で議論されてきました。
▼自由意志 – Wikipedia
自由意志の問題とは、理性的な行為者が判断に対するコントロールを行うことができるか否か、という問いである。
一般的に、「意志は脳の働き」であり、かつ、「脳が物理法則に従う」ならば自由意志はないと考えるのが適当である。逆に自由意志があるのであれば、これらの一方か、両方が否定されなければならない。
初期の科学思想家のうち、ある者は決定論的なものとして宇宙を描き、またある者は完全に正確に未来の出来事を予言するには、充分な情報を集めさえすればいいと考えた。しかし、量子力学は、そのような情報はどのようにしても完全には求められないことを明らかにした。
動かした手の選択へ外的影響(磁場を用いた脳に対する刺激)が加えられていたにもかかわらず、被験者は「手の選択が(外的影響とは独立に)自由になされたことを確信している」と報告している。
決定論とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場。
科学の領域においては、近代になると(道徳的な次元の問題としてではなくて)人間を含めた物質を粒子の集まりとしてとらえ、その挙動によって粒子の未来の位置は決定されていると考え、結局人間の意志や思考を含めて絶対的に未来が確定されている、と見なしたり主張したりする者が現れるようになった。
だが、20世紀になると、量子力学におけるコペンハーゲン解釈によって、宇宙は原子下のレベル、量子レベルであまねく確率的であるという説が有力となった。
近代科学においては、物理学者であり決定論者でもあったピエール=シモン・ラプラスは、もし宇宙の全ての原子の運動および位置が分かるならば未来は完全に予測できると主張した(ラプラスの悪魔)。
しかしその後、「宇宙の全ての原子の運動および位置が分かる」可能性は、現在ではハイゼンベルクの不確定性原理によって否定された。このことは、量子力学の観測問題と直接的に関わってくる問題であるが、現在の量子力学の標準的な解釈であるコペンハーゲン解釈の登場により、決定論の証明は難しくなった。
つまり、人間の人生や生活、日々の判断は、完全に本人の自由な意志に委ねられているのか、あるいはすでに神様により決定されていて、そのレールの上を生きているだけなのか、という問いです。
この娘の問いかけに対しては、僕はこう答えました。
人間は、神様が動かしてる時もあるし、自分で動いてる時もあるね。
すると娘は、手足をバタバタと動かしながら、
今は自分で動かしてる。
と確かめるように言いました。
僕はこう続けました。
パパが病気になったのは、神様がそう決めたからだよ。パパだったら、病気になっても絶対に病気をやっつけちゃうし、「こうやって病気をやっつけたよ」というお話をブログに書くと、同じ病気の患者さんがそれを見て、「こうすればやっつけられるのか!」って分かるから、みんなのためになるよね。
だから、会社に行ってお仕事するだけじゃなくて、お家でブログを書くのも、パパの大事な仕事なんだよ。
すると娘はうれしそうにこう言いました。
じゃあたくさんお仕事あるね!
なぜ突然、娘がこんな深遠な疑問を持ったのかは、よく分かりません。家内によると、この前日にも家内に同様の質問を投げかけていたようです。
家内はこう言いました。
神様が子どもを通じて何か大切なメッセージを伝えようとしているのかもしれないね。
どんなメッセージが込められているのかを考えています。