まだ入院中/医者から見ても死にかけた自分/記号化し氷山の一角となった苦痛

前回のブログ記事で、9月24日(日)に高熱で緊急入院したことを書きました。入院後、熱はすぐに下がったんですが、もう一つ、全く想像していなかった大きな山が待っていました。
そしてその山を越えようと、今日、10月4日(水)現在も、まだ虎の門病院に入院中です。
再入院で復活した点滴ポンプ


異変が起きたのは9月29日の夜でした。
■9月29日(金)
夜、いつものように病棟のデイルーム(ロビー)で娘と妻とFaceTime(テレビ電話)をした後、病室に一旦戻って、トイレに行きました。すると突然、猛烈な吐き気が襲ってきて、吐いてしまいました。
そして下は下で、以前からの下痢がひどく悪化しており、出てくるものは水のような状態です。
なんとか病室に戻ると、また急激な吐き気で病室の洗面台に吐いてしまいました。とにかくナースコール、と看護師さんを呼びます。
タイミングを見てベッドに横になると、お腹が痛く、特に胃はギューっと胃全体を掴まれるような痛みです。
その痛みをお腹を抱えてこらえていると、容赦なく吐き気が襲ってきて、洗面台で嘔吐。なんとかベッドに戻ると、今度は急激な便意でトイレに行かざるを得ない状態に。
ベッドと洗面台、トイレを行ったり来たりしているうちに、便意の方は出るものがなくなったためか少し落ち着き、嘔吐と痛みとの闘いになってきました。
もう金曜日の夜中でしたが、看護師さんは、担当医の湯淺先生に電話をかけて指示を仰ぎながら、採血や点滴などをしてくれます。
そして夜中にも関わらず、入れ替わり立ち替わり先生も来てくれます。血液内科部長の内田先生や、内科の当直の先生も来てくれ、僕の様子を見ながら看護師さんに指示を出します。
そうした指示の元、看護師さんの手で僕の体には点滴のラインや心拍数、血液中酸素濃度等のセンサーなどがつながれていき、体中が管だらけになりました。
特に今回の場合、嘔吐や下痢、お腹の痛みといった消化器の症状だけではなく、血圧が急激に低下していることが問題視されました。もともと血圧は低め(上が90〜100程度)ですが、この日の深夜には上が69にまで下がってしまいました。そのため複数の昇圧剤(ノルアドレナリン等)も点滴されました。あまり血圧が下がりすぎてしまうと命の危険があります。
さらに熱も39度前後にまで上がりました。解熱鎮痛剤(カロナール)も投入されました。急激に熱が上がったことから寒さでガクガク震えるため、電気毛布をかけてもらいました。
枕の脇においてもらった枝豆のような形のトレイに嘔吐し、そうでないときはお腹を丸めて、寝返りを繰り返しながら痛みを堪えていました。
■9月30日(土)
そうしているうちに、いつの間にか朝になっていました。担当医の湯淺先生が来てくれていました。「高山さん」といういつもの声に目を覚ましたら、目の前に湯淺先生がいました。
先生は「大変でしたね」と言ってから、「恐らく何らかの菌が胃腸に入ったのだと思います。胃腸の方は少し落ち着いたようですね」と言いつつ、右腕に追加の点滴のルートを確保すべく留置針を刺しました。
そして、「血圧が低すぎると、尿が出にくくなってしまうので、尿道カテーテル(尿道口から膀胱に通して尿を排出する管)を入れたほうがいいです」と言いました。
僕が「尿道カテーテルは6年前の脳腫瘍の手術以来ですね・・・」と躊躇していると、先生は「移植治療の過程でやる人もいますが、そういえば高山さんはやりませんでしたね」と言い、そんなやり取りの後、結局先生に説得されてカテーテルを入れることに同意し、入れてもらいました。
そこまで自分でやった先生は、時計を見て、「もう行かなきゃ」と言いつつ、手早く看護師さんに指示を出して出て行かれました。土曜日の朝、別の予定があったにも関わらず、病院に来ていただくことになり申し訳なく思いました。
その後主治医の山本先生も週末にも関わらず様子を見に来てくれました。
この日は妻と娘がお見舞いに来てくれる予定になっていました。それがちょっと日程変更になったと、この朝、妻がLINEで連絡をくれていました。
でもこの日もまだベッドに横になる以外のことをやる気力も体力もなく、気持ち悪いお腹を抱えて横になって、一日中じっとしていることしかできませんでした。iPhoneを手にとることもできませんでした。
だから後で妻に聞いたところ、「LINEが既読にならず、返事も来ないため、何か大変なことがあったのかもしれないと思い、病院に電話しようかと思った」、とのことでした。その想像通りになってしまっていました。
この日はまだ食欲は全くなく、食事も一切口にできませんでした。丸一日、水と薬しか口にしませんでした。
■10月1日(日)
この日はかなり体調も戻り、朝から看護師さんに「本来の高山さんに戻りましたね!」と言われるくらいでした。
朝、湯浅先生が来てくれたので、「左指先のセンサー(血液内酸素濃度)と、尿の管を外していただけないかお願いしたら、意外とすぐにオーケーしてくれました。
そして、先生は「こういう血圧低下を伴う感染症は、移植後の患者さんはたまにかかるものなので、心配しないように奥さんに伝えておいてくださいね」と言ってくれました。先生はいつも、僕自身だけではなく、僕の家族みんなを気にかけてくださっていて、本当にありがたいです。
またこれは別の機会に湯淺先生から聞いた話です。「あの29日の夜中の高山さんの様子を見た内科の当直の先生は、きっと『この患者さんはもうすぐ死ぬに違いない』と思ったのではないかと思いますよ。血液内科の患者さんではたまに見る感染症の症状ですが、内科ではほとんど見ないでしょうから。」
改めてこの言葉を考えると、「自分は医者が見ても死にかけているように見えるほど大変な状態だったんだ」と不思議な気持ちになります。
なぜ不思議な気持ちかというと、自分自身はこの苦痛の中でも、「こんなことでは絶対に死なない、13年後の娘の二十歳の誕生日までは何があっても絶対に死なない」と固く信じていたからです。この「人生の目標」は、一切ブレませんでした。
少しずつ体調が回復し元気が出てきたこともあり、ここ数日、シャワーを浴びていないことが気になり始めました。特に高熱で汗をたくさんかいた後です。
でも転倒等の危険があるシャワーはさすがに無理です。ということで看護師さんに体を拭いてもらいました。最後にシャワーを浴びたのが4日前、その後高熱やら何やらがあったので、気持ちよかったです。
■10月2日(月)以降
その後、10月2日(月)、3日(火)、そして今日4日(水)と少しずつ回復しています。口から食事を食べられる量が増えてきて、車椅子ではなくても、看護師さんの付き添いだけでトイレに行けるようになりました。点滴も少しずつ減っています。
またこのひとたちのお世話になることに、、、点滴スタンドと点滴
ただ、まだ昇圧剤を点滴していることもあり、シャワーの許可は下りません。今日は妻に体を拭いてもらいました。
とはいえ、徐々に血圧も上がってきたので、明日には昇圧剤(ノルアドレナリン)の点滴も終わる予定です。そろそろ先生から退院のお話も出てくるかもしれません。そうだといいなあと思っています。
それにしても、さい帯血移植治療から退院(7月17日)した後に、こんなに大変な思いをするとは思いませんでした。さい帯血移植直後に、免疫反応で40度以上の熱が数日続いたり、未明に急に胃がギリギリと激しく痛み出して先生を呼び出していただいたりしたときと同じような辛さ、大変さでした。
と同時に、あの頃の辛さがすでに「40度を超える熱」「ギリギリとした胃の痛み」などと記号化されてしまっていて、その言葉を氷山の一角とするもっと深く大きな精神的苦しみなどを忘れかけていたことに気付いて、ハッとしました。人間の記憶は、こうやって自分に都合がいいように書き換えられるんだなあと改めて思いました。
本当に肉体的な苦痛が大きいとき、生死に関わるときに、人はどう感じ、何を考えるのか。それを次の本で言語化したいと思う反面、一般の方にそれを共有することにどういう意味があるのか、という問いも自分の中で消えません。普通の人は生死に関わる苦痛を経験をすることはあまりありませんので。
じゃあ自分はなぜ3回目のがんを闘っているのか。そしてその経験をまた世の中に発信しようとしているのか。これから自分なりの答えを見つけて、2冊目の本の中で表現できればと思っています。

★闘病記ブログランキングに参加しています。下の病名ボタンをクリックしてくださると、ランキングが上昇し、より多くのがん患者さんに僕の闘病記が届きます。よろしければクリックしてくださるとうれしく思います。4回のがんをがんを乗り越えた経験が、一人でも多くの患者さんに届きますように…

にほんブログ村 病気ブログ 白血病へ  にほんブログ村 病気ブログ 悪性リンパ腫へ  にほんブログ村 病気ブログ 脳腫瘍へ