前回の闘病記からの続きです。
◼︎2013年7月11日(木)。入院60日目。抗がん剤治療開始から52日目。
この日も、抗がん剤治療Hyper-CVAD/MA療法の3コース目、Hyper-CVAD療法(2回目)の点滴をしました。
グラニセトロン(吐き気止め)、エンドキサン(抗がん剤)、デキサート(ステロイド剤)です。この組み合わせはこの日で終わりです。
この日は朝から何となく倦怠感があり、何となく食欲がないという、副作用を感じ始めた日でした。
その副作用の中、ベッドに横になって、今後の治療方針や、病気になった意味、人生の目標などについて、いろいろと考えていました。
家内はその日も夕方、仕事の都合をつけて病院に顔を出してくれました。家内にも一人で考えていた内容を話しました。家内も自分の考えをいろいろ話してくれました。家内と話すと気持ちが整理され、心が落ち着きました。
こうして家内のありがたさを感じている中で、それまで自分が考えていた人生の目標であった
「娘の二十歳の誕生日においしいお酒で乾杯してお祝いする」
は、
「娘の二十歳の誕生日を、娘と家内と僕の家族三人で、おいしいお酒で乾杯してお祝いする」
に書き換えるべきだと気付きました。
つまり、娘の二十歳の誕生日を僕が見届けるだけでは不十分であり、その誕生日を、家族三人、仲良く健康に幸せに迎えて、一緒にお祝いすることが、本当に大切なことだと気が付いたということです。
さらに、自分の内面を探っていくなかで、これまで信じていた
「自分は精神的に強い人間である」
という思い込みは、間違っているのではないか、と気付きました。
自分は昔から、自分で目標を設定し、達成するための計画を立て、努力し、困難を克服し、目標を達成してきました。受験でも就職でも転職でも起業でも経営でも、全て同じです。そうやって生きてきた自分は強い人間だと思っていました。自分が正しいと思っているので、人に相談することもほとんどありませんでした。常に自分で考えて自分で決めてきました。
でも、ベッドの上の自分は、自分一人で生きているわけではありません。家内や娘の支えがなければ、看護師さんのお世話がなければ、先生の治療がなければ、そして会社のみんなのがんばりがなければ、生きていることすらできません。
「自分は全然強い人間ではなく、本当はみんなに助けてもらわなければ生きていられない弱い人間である」
と心の底から気付きました。
そして、それまで持っていた「自分は強い人間である」という間違った思い込みが、自分に無理を強いることになり、精神や肉体にストレスをかけ過ぎて、病気を招いてしまったのかもしれない、と考えました。
入院中は、こうして自分の内面、潜在意識を探って、間違った思い込み、自分を縛っている無意識の制約を探る試みをしていました。
その中で、もう一つ気づいたことがありました。それは、
「自分もいずれ、本当に辛い『闘病』を経験しなければいけない」
という間違った思い込みが、自分の潜在意識の奥底に存在したということです。そしてそれが、1回目のがんである脳腫瘍(グリオーマ)の後に、2回目のがんである白血病・悪性リンパ腫を招いてしまったのではないかと考えました。
僕は2011年の脳腫瘍の治療の後、
「自分が脳腫瘍で経験したことは、舌がんで亡くなった父や、乳がんで亡くなった妹の大変な闘病生活を思うと、全然大したことがない」
と考えていました。実際、当時、このブログにも、脳腫瘍治療から半年ほど経った2012年4月に下記のように書いています。
▼脳腫瘍闘病記?体験記?
僕は高校時代に父が舌がんで、8年前に妹が乳がんで亡くなりました。術後の痛みや抗がん剤の副作用に本当に苦しみ、その挙句に子どもたちを残して死んでいった父と妹の大変な闘病生活を思うと、僕なんか本当に大したことがなくて、とてもとても「闘病」なんて言葉を使うことはできないと思ってしまいます。
そして世の中には、本当に全身全霊をかけて病魔と闘っている患者さんもたくさんいらっしゃることと思います。「闘病記」の言葉がタイトルに含まれた本は多数出版されていますし、同様のブログもネット上でたくさん見つけることができます。そうした本やブログを見ても、やはり自分の場合は、闘病記というのはちょっとおこがましいかなと思ってしまいます。
こうした考え方の奥底には、「いずれ自分も本当に辛い闘病を経験しなければいけない」という思い込みがあったのではないかと気付きました。
だから、比較的楽に乗り切れた脳腫瘍治療の2年後に、本当に苦しい7ヶ月間の白血病・悪性リンパ腫の「闘病」を経験することになったのではと考えています。
やはり、自分の間違った思い込みが、2回目のがんを招いてしまったのではと思いました。